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東北大学学友会能楽部喜多会お稽古日記☆

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僕には一炊の栄華も訪れません。T塚(仮)です。
さて、3月2日は東京の国立能楽堂まで粟谷能の会を見に行きました。
演目は「邯鄲」と「隅田川」で、どちらも素晴らしかったですが、特に「邯鄲」に感動しました。
この曲のあらすじを紹介すると、人生に思い悩んでいる蜀の国の廬生さんが、邯鄲の里で泊まった宿で、仙人が置いていった、悟りを開くことが出来るという枕で眠りにつきます。すると勅使が現れ、廬生を皇帝に迎えると言います。皇帝になった廬生は、不老不死の酒を飲み、歓喜の舞を舞い、50年間栄華を極めた日々を送ります。しかし、それもすべて夢の中のこと。宿の女主人が枕元で、粟飯が炊けたと言って廬生を起こします。目が覚めた廬生は、呆然としますが、人生とは何事も一炊の間の夢に過ぎないのだと悟り、帰って行く、という話です。

この曲は、後半の展開が素晴らしかったです。廬生が皇帝として舞を舞い、輝いているシーンから、(夢の中で)それが夢なのだと気づき、臣下も宮殿も消えていくことに狼狽するシーン、そして目が覚めて、ただ呆然と悲しむシーン、という一連の流れは、本当に鳥肌が立ちました。夢の終焉に向かって地謡、囃子が最高潮に盛り上がっていったところから、夢が覚めて一気に静寂が訪れ、そのあと呆然としたように静かに謡う、といった演出には、涙が出そうになりました。能を見て泣きそうになるのは初めてかも…
また、今回の邯鄲には、「傘之出」という小書きがついていました。廬生が最初に傘を持って現れ、帰るときに女主人からまた傘を受け取って帰る、という特殊演出なのですが、それがまたこの曲のラストをよくしていたように思います。地謡がすべて謡い終えた後に、女主人と軽い会話を交わして帰って行く様は、この曲の最後を劇的なものにするのではなく、逆にものすごく日常的なものにすることで、この曲の持つむなしさを一層引き出していたように感じました。
終演後は、ただ呆然とするのみでした。

ということで、今まで見た能で多分一番感動してきた僕でしたが、感動するだけでなく、しっかり勉強もしてきました。特に今回は謡のテンションの盛り上がり方、下がり方、幅の付け方が素晴らしかったので、しばらくはそれをテーマに謡っていこうと思います。
今回は色々と得るものが多かったです。こういった能を見れたことに感謝!ですね。それでは、長々と瀧塚でした。
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